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高3アカデミックリテラシーで「教養原論」を行いました〈第7回〉

11月17日(金)、高校3年生推薦進学コースの授業「アカデミックリテラシー」で、明治学院大学社会学部社会学科の松波康男先生が「教養原論」の講義をしてくださいました。
今回は「人類学からみた『他者』」と題して、人類学の端緒に触れる機会をいただきました。
授業の後半では、西アフリカでの名づけの慣習を例に共感的な理解を体験し、“存在の輪郭がとける”感覚を体験することができました。

生徒の意見・感想を紹介します。

  • 私たちは育った土地の文化の色眼鏡を通して物事を見たり考えたりしている。表面的には異文化を理解できても、本当の意味で理解することは難しい。しかしどれだけ自分に受け入れられない人がいても同じ人間だから、離れようとせずに繋がって、対話をして深めて遡ることで、根本的な本質を知ることができ、受け入れられなくても意味が理解できて尊重することになるのだと思った。異文化でも差異があるが日本人の中にも差異がある。このように考えて、歩み寄ることが平和の第一歩なのだと感じた。
  • 今回の教養原論は、人類学の観点で学んだが、つながりの意味について深く理解ができた。西アフリカのモシの名付けは、子供に奴隷や人間ではないなどの名前をつけるというもので、当初は遠いどこかの独特の慣習で、なぜそのような名前をつけるのか理解できなかったが、最終的には子供を失いたくないという親の子供への愛情であると知って、とても興味深かった。
  • 一見奇妙なことでも詳しく見ていくと理解につながるうえ、表面的な理解だけではなく、根底にあるものをみつけ共感できるところまでいくことが本当の共感であるのだとわかりました。
  • 自己と他者とのつながりがあって人間関係が構築されているからこそつながりというものが見えて大事になるということである。他人がいるから両方の意見がぶつかって、相違が出てくるので結果的に自己は他者がいないと何にもできないということがわかった。
  • 世界を見ると、各地域に様々な文化があるため、一見理解し難い文化もあるが、深く知ろうとすることで、自分たちと同じ考えを持っていたり、目的があるのだと思った。また、他者との関わりがあるからこそ、分断や対立が生まれるのだということが分かった。他の国の民族文化を学ぶ上で大切なのは、固定概念に縛られずに、他者を理解することだと思った。