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高3アカデミックリテラシーで明学大の先生による講義「教養原論」を行いました<第3回>

10月8日(金)5・6時間目、高校3年生推薦進学コースの授業「アカデミックリテラシー」で明治学院大学文学部フランス文学科教授の慎改康之先生が「教養原論」のオンライン講義をしてくださいました。

「教養原論」全体の講義テーマ「『他者』と向き合う」を元に、「自己のなかの他者」と題して講義が行われました。生徒たちは精神分析やキリスト教、精神分析学とキリスト教に共通する考え方について話を聞き、自分のこと、自分の中の他者について考えたようです。

生徒の意見・感想を紹介します。

  • 自分の中には自分の知らないことが必ずある。確かに自分のことは自分が一番よく分かっているが、実は他人から見ないと分からない、無意識によって生じている部分も存在することを知った。また、精神分析学とキリスト教には共通性があることに興味をもった。キリスト教が大切にしている性の考え方や悔い改めるという行為は私たちの生活にも関わっていると感じた。性の考え方はとても難しいがその価値を大切にし、重要視することが必要なのだ。自分の中にある非意思的なものも自分を構成する上ではとても大切で、自分自身のことをよく知る必要があると思った。
  • 肉体的な病の場合は、目に見えて視覚的に捉える事が出来る為、治療法を見つけることが出来る。しかし、心の病の原因は目に見ることができず、その本人にも分からない事が多い。そのような時に私達が見る夢から解決のための糸口を探し出す事ができると初めて学んだ。無意識の中に本当の私が姿を変えて現れ、自分自身の事を教えてくれる手がかりになる。だからこそ、無意識の大切さを改めて感じた。
  • 自分のなかには、自分の知らないもう1人の自分がいるのではないかと疑問を抱いたことがある。そのため、精神分析学とキリスト教に共通する考え方や精神分析学を特徴づける考え方に、「私のなかのもう1人の私」があることに驚いた。「私のなかのもう一人の私」は無意識という秘密の場所にあることを知って、私はもうどうすることも出来ないのではと思った。しかし、自分の秘密を自分が知って解放すれば良いと分かり、安心したし、人間の心は深いものだと感じた。
  • 無意識とは他者のようなもので、切り離すことができないものであり、欲望とは初めから属しているものだということを理解するには時間がかかった。無意識の中で出てくる言動は自分の癖で、それは私自身でしかないと思ったため、無意識が他者のようなものとは、私にはよくわからなかった。不可解な行動も私自身から出たものに変わりはなく、自分がわからないからと言って他人に聞いたところでわかるはずがなく、自分は心の中ではこう考えていたと気づくだけなのではないかと思った。
  • 精神分析学とキリスト教に共通点があると知った。ときどき、誰にでもあるはずの性的欲望を持つことがなぜ悪いことのように思われるのか疑問に思うことがあった。性的欲望を持たないことが美徳であると多くの人が思っているから、性的欲望を都合の悪いものとして無意識の中に閉じ込めるのではないかと考えた。
  • 無意識の中に本当の自分がいることがよくわかりました。本当の自分について知ることは少し怖い気がするけれど、それでも知ってみたいし、知ることで分かることが沢山あるのではないかと思いました。しかし、無意識の中には自分が隠したい自分がいて、その自分を知ることで失望してしまわないか不安になりました。
  • 身体の状態に直接作用されない心の病は無意識によって引き起こされているため、その無意識を意識の中に持ってくることで治療するという話が特に興味深かった。
  • 無意識というのは自分の中にある秘密であり、また自分にとって都合の悪いもの、性的欲望などを押し込めるものである。そうした性的欲望を封じ込めるためにも結婚イコール制限が必要になるのだ。しかし現実的に考えて、浮気などが横行する今の時代にとって結婚の制限はないも同然ではないだろうか。あくまでキリスト教にとって結婚なのだろう。
  • 精神分析学というものを初めて聞き、難しかったが、興味深いものでもあった。無意識という言葉はよく使うが、私の知らなかった「無意識」の意味を知ることができた。今後、自分を見つめなおし、他者と協力して、自分の知らないもう一人の私と向き合いたいと思った。
  • 無意識というのは他者であり私自身というのが最初は理解できなかったけれど、説明を聞いてなるほどと思った。また、キリスト教に基づいて西洋の考え方が作られてきたのを強く感じた。これから大学に進むにあたって、西洋と東洋(日本)の考え方の違いはよく出てくるテーマだと思うので、覚えておきたい。不思議なのは、非意志的なものを性的欲望だけに限定している感じがしたことだ。もっと、他の自分では意識していないような考えがあるのではないかと感じた。
  • 自分のことなのに、自分の中なのに、自分の知らない自分があったら精神が参ってしまうのはわかる気がする。加えて、意識下の自分と無意識下の自分の中に相容れない部分があったら、なお心病んでしまうだろう。「無意識下の自分を自分の意識下に持ってくる」とは、この文だけを見たら意味がわからないと感じるが、講義を聞いていたら、なんとなくこの言葉が理解できた気がした。無意識下の自分も自分なのだと寛容な心を持って受け入れたい。